門番のお部屋

門番の合気道論(人に言う今の心=信念)


2001年10月01日


至誠館 江見 博文

は、合気道を始めた頃より「歩く姿が合気道」と呼ばれるようになる事を目指して参りました。ビギナーの頃はこの言葉が意味するところは、合気道家然と姿勢を正し、威風堂々とした姿で歩く事だと思っておりました。しかしながら、自己の中でその解釈が大きく変わっている事に気づくようになりました。「合気道」とは何かという自己解釈が経年と共に変化してきた事に気づいたからです。

闘技や護身術として日々合気道の稽古に臨んでいた初期の頃と異なり現在では、この「合気道」とは何かと言う究極の解を得んがために日々稽古にはげみ、生活の中でも現在の自己解釈での「合気道」を実践する姿自体が「歩く姿が合気道」の体現であると考えております。

まり、日常の歩くと言う中にも合気道の修行があり、歩く事そのもの、その姿が即合気道であると言う意味も有るとも思っております。普段していない事は道場でも出来ないと言う意味で、日常生活の中でも常に合気道の理合いと共にある事が大事なのでは無いでしょうか。

は、現在私が考えております「合気道」とはどのようなものなのかと言う事について論じたいと思います。

本語文化では名称というものはその名付けられたものの本来の姿や意を凝縮したものであると言うことは万人に周知の事ですが、「合気道」という名称も大先生や歴代道主の残されたお言葉、日々の稽古の際にご指導いただく師範や諸先輩の教えなどからもはかり知れます。特に「合気」という言葉は様々な説明がなされていますが、やはり「気を合わす」というそのままズバリの解釈がしっくり来ると思います。「天地神人合一和合」の道と大先生は書き残されておられます。

の師である門川師範から「合気道は格闘技や武術ではなく武道です。武道と称する武道はないが、合気道は間違いなく武道です。」と教えて戴きました。この言葉の意味するところは非常に難しいのですが、格闘技や武術は他と争う時の技や術、つまりテクニックの修得、向上を第一義としたものであり、合気道でも同様な一面もありますが、テクニックだけでなくそこに精神面や人生指標としての心のありかたをも含んでいるのだと考えております。当然に、格闘技や武術のテクニック的な向上を求める場合であっても精神面の向上も必要となります。では、何が違うのかというとその第一義の目的とするもの、その目的の順序が違うのだと思います。合気道風の技と言うのはこの精神面が未熟であっても躰ができていればある程度のテクニックを体現することができます。しかしながら真の合気道の技を体現しようとしてもこの精神面ができていないと全く合気道風の技にしかならないのです。大先生はここのところを「スポーツ」と「武」を比較されて表現されておられます。いわく、「スポーツは身体を大きくし、武道家の身体の基礎を作ることはできるが、その武魂を創ることはできない。武は修練すれば武魂を養うに適した誠忠にして善美なる肉體を作ることができる。」と書き残されておられます。つまり肉体を鍛え上げるだけでは足りないということです。

は、その精神的な面、心の部分とはどう言うものであり、どのように修行していくのでしょうか。現在、私は諸々な書物や先達の方々からの教えの中から「合気道とは結びの御技(みわざ)」であると言うことにこだわりをもって稽古を致しております。この「結び」を実践するには真に武得をもった、強靱なる精神を養わなければならないと考えております。

こで、もう少し分かりやすくするために私の言う「結び」とはなにかということを解明していく必要があります。

「むすび」という言葉自体は、古くは古事記の中で、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かんむすびのかみ)が描かれています。「産巣日(むすび)」とは古神道的解釈では「結び」とされており、結びつける或いは産み出すという意味を持ちます。さらに解釈を発展的に進めますと、これは日の巣を産み出すことですから力の源を産むという意味があります。ここから「結びによって絶大なるパワーの源を生じさせる。」と言う事が考えられます。そのような考えを技の中はもちろんのこと、日々の生活の中で体現する事が出きるよう模索するのが現時点での私の稽古の主体となっております。

「結び」と言うのは大先生の仰られた「天地神人合一和合」を一言で表現したもので有り、「合気」と同意語と考えております。つまり、「天地神人合一和合」を実践できれば「合気道」の実践と成り、「絶大なるパワーの源を生じさせる。」事が出来ると考えているわけです。

は、どのようにこの「結び」を実践し、体現していくのかということですが、我師門川師範から「結びと言う言葉は分かりづらいので、あえて使わずに『ぶつからない』と言う言葉を主に使って説明しています。」とお教え戴いております。ここに結びの糸口を垣間見ているように考えております。つまり、「結び」の入り口に「ぶつからず」があるのではないでしょうか。

は、他から攻撃を受けた時には、無条件反射、あるいは条件反射的にもぶつかり合う方向に動きます。つまり、押された場合は押し返そうとし、引っ張られた場合は逆に引っ張り返そうとします。単純ですが簡単に説明すれば、これが「ぶつかる」動きです。この事から安易に「結び」とは単にこのような動きと相反する動きを指すと解釈されがちですが、私はそのような単純なものでは無いと考えております。つまり、これらの動きとは次元が異なります。

に「押さば引け、引かば押せ」と言う事では無く、その物理的な交わりだけで無く精神的な面、存在そのものが相手と結びつかなくてはならないと考えております。格闘と言うよりも社交ダンスの方が感覚的には共通点が有るかも知れません。また、結びを施す過程で「ぶつかる」という動きが必要な場合も多く有りますので、全面的に「ぶつかる」と言う事を否定するものでも有りません。ぶつかりつつ結ぶ事も可能だと考えております。もう少し簡単に表現しようとすると、ぶつかりつつぶつからないと言うかえって難解な表現になってしまいます。

こまでの話では余りにも抽象的で分かりにくいと思います。具体的にはどのように「結び」を体現するのでしょうか。これは、文面では表現しきれない面があり、特に私の稚拙な文章力では全く歯がたちません。大先生はじめ先達の方々が使われる最も具体的な表現は、「入り身」「転換」だと思います。入り身転換は、この「結び」にとって、欠く事の出来ない動作であり、先ほどのぶつかりつつ結ぶの順序立てをも表していると思います。入り身でぶつかりつつぶつからないを体現し、転換ではさらにそれを結び(和合)へと発展させ、相手を導き、技を完結させると言った具合です。

の表現方法では、有名な△○□もやはり前述の手順を端的に表現したものではないでしょうか。△は、「三角に入って」と言われるように入り身を表し、○は「丸く捌いて」、つまり転換を表し、□は、「四角く納める」で技の完結を表していて、やはり、結びの手順を表したものと考えております。

に、「平常心」と「結び」のつながりについて記述したいと思います。よく「平常心」と言う事が言われます。なぜ、武道では「平常心」がことさらに大切にされるのでしょうか。

「合気道は、常に勝っている。相対した時にはすでに勝っているのだ。」と良く言われます。また、「相対して即和する」と言う事も良く見聞します。この事をよく考えてみますと、合気道には勝負と言う観念がなく勝負がない上で、常に勝っていると言う事だと解釈しております。常に勝っているからと言って相手は常に負けていると言ったような勝負での相対関係はそこには無いと言う事では無いでしょうか。不思議な言い回しですが「天地神人合一和合」を実践すると言う事は勝負というような次元で合気道に取り組むのではないのだと言う事が理解できるはずです。ですから、ことさらに勝とうと意気込む事も無い訳で、もっと言えば結ぼう、和合しようとする必要も無い訳です。かえって、このようなものにこだわりを持ってしまうと「結び」の境地にいたることは出来無いのでしょう。「般若心経」の境地の説明のようになりましたが、まさに「般若心経」の解説書を目にした時にこれだと思ったものです。つまり、「色即是空、空即是色」の世界観です。

「勝速日」という教えが合気道には有ります。これは「太陽の光が襖を開けると、何時入ったとも無しに差し入ってくるように武道もそのようで無ければならない。」という古人の極意を大先生が書に表されたもので、まさに、そこには何にこだわりを持つ事無く泰然とそこに存在するだけ(つまり平常心)で既に何ものも照破しているという境地を表しており、まさに「平常心」の重きを表したものと私は解釈しております。

「平常心」については、私はまた、心だけの問題では無いとも考えています。平常心を維持していれば身体の筋肉はリラックスしています。逆に筋肉や身体がリラックスしていなければ平常心は維持できません。これが、よく言われる脱力の極意でも有り、この脱力はぶつからないの極意でも有ると考えております。力をいれるとそこにぶつかる支点を作ってしまうからです。

上のように「平常心」は「結び」体現にも非常に重要な要素で有ると考えています。

常に抽象的で難解な文章となりましたが、門川師範の教え以外にも日々の稽古の中で気を巡らせておりますと、先達の方々のお言葉の中にも「結び」「合気」とはなにかという糸口がいろいろと見受けられますが、究極的には、もともと必然的に和合(結ぶ)すべきものなのだから糸口さえ見つければどのような場合も和合(結ぶ事が)出来ると考えて、それを体現する事を目標に日々研鑽致しております。技は結びの体現として自然と産み出てくるものであり、そのことが、曰く「武産合氣」と言う事なのではないでしょうか。

以上